留学日記

留学日記

私が留学したいって思ったのは、高校生の時でした。
まだまだ、海外旅行が一般ではありませんでした
新婚旅行でハワイへ行く事じたいステータスでした
とてもじゃないが、両親に「留学したい」なんて言おうもんなら
「何、寝ぼけた事を言ってるの?」と言われるのがおちである
そのぐらい、「海は広いな大きいな、行ってみたいな他所の国」
外国というだけで、遠い遠い所というイメージがありました

社会に出て何年かすると、仕事のおもしろさがわかってきます
いつのまにか、私の頭の中から「留学」という文字が
消えていました
仕事が忙しかったせいもあるんでしょうが・・・
(長期の休みは、まず取れません)
私の入った会社は某大手の兄弟会社でした
社員数はもちろんですが、支店数も半端じゃない
気がつくと北海道の支店にいたり、九州の支店にいたり・・・
とにかく転勤が多かった
(その分、いろいろな所で美味しいものが食べられた)
しかし、残念な事に拡張しすぎたせいでしょうか
倒産

しばらくは何もしたくないって感じでした
しかし、何もしないわけにもいかず
職探しの毎日というわけです
その頃、私の頭の中には「お金」を扱う仕事がいいな~
お金を扱っている仕事なら「まず、つぶれない」
なぜか、そう思い込んでいました
普通、お金を扱う仕事というと銀行を思い浮かべますが
私はなぜか「消費者金融」
そして、国内でも5指にはいる
消費者金融(通称サラ金)に入社しました
楽といえば楽でした
カウンターに座っていればいいのですから
お客さんの方から来てくれるんですから
こんないい仕事はないな~毎日が幸せそのものでした
(ちなみに当時は年利72%)
しかし、いい事は続きませんね
またまた
倒産

しばらくは失業保険で暮らしていましたが
いつまでも保険があるわけではないので
またまた、職探しの毎日でした
今度ばかりは、頭に浮かぶ仕事はありませんでした
でも、何かしなければ・・・
毎日、毎日職業安定所通いでしたね
ある日、フッとひらめいたものがありました
「衣・食・住」に携わる仕事なら潰れないんじゃー無いかな~
私はそう思って、これに関する仕事ばかり探していました
しかし、衣食に関する仕事はどうも納得できるものがなかった
そこで(とはいっても消去法だが)住宅に関する仕事を
何社かピックアップして検討した
しかし、住宅関係の仕事も、まったくの素人ですから
何を基準にすればいいのか検討もつきませんでした
そこで、私のアイデア!
3社まで絞り込んで、その会社の用紙をそれぞれ丸めて
後ろに放り投げ、手探りで1枚の紙をつかんだ
そして、そこ1社のみ面接を受け、入社いたしました
不動産の営業です
自分で言うのもおこがましいが、けっこう向いていたと思う
給料もよかったな~
しかし、幸せはそう長くは続きません
今度は会社縮小という事で大幅な人員整理
(ようはバブルのつけ)
こんどこそは、と思ってたもんですから
私のショックは半端じゃーない

何ヶ月かブラブラしてた時、電車の中で女子高生達が語学留学の
パンフレットを見ながら夢の話をしていました
そういえば私も彼女くらいの歳に外国へ行きたいと思ってたな~
20年近くたって、ようやく私の頭の中に「留学」という文字が
浮かびあがってきました
その頃、仕事は全然探していませんでした
留学に関する本やパンフレットばかり見ていました
寝ても覚めても「留学」の事だけでした
まわりから反対されても、当時のわたしは
「聞く耳持たず」
徹底してましたね
そして、留学斡旋の会社へ行き、申し込みとなったわけです
申し込みから出国まで2~3ヶ月かかりました
(これは、年齢によって差があります)

忘れもしません、「1999年2月26日19:00」

成田空港から香港経由でブリスベンに向かいました
見送り人無し!
当時の日記にはこう書いてあった
「とにかく無事に着けますように!」
成田から香港は4時間ぐらいですからすぐ着いたって感じ
途中、香港で乗換えなんですが、日本語が通じない!
日本語を話せる人はどこにもいない
困りましたね~乗り換えが出来ない!
チケットを見せて連れて行ってもらいました
今、思えば簡単な事なんですがね
4時間の待ち時間があったけど
搭乗口の近くでじっとしてました
(迷子になったら最後だと思った)
搭乗アナウンスがあっても聞き取れないし
(聞き取れたとしても意味がわからん)
本当に乗ってもいいのか心配でした
迷っていると、先ほど私をここまで案内してくれた女性が
「OK!」
そう言ってくれた
(単純明快、私にもわかる)
今、思えばせめて名前だけでも聞いておくんだった

当時の私の英語では
Wha`ts your name?
そう聞いていただろう
(失礼このうえない)
May I have your name,please?
とっさには出ないんだよな~これが!

機内において
香港に向かう時は、東洋人が多かったけど
ブリスベンに向かう時は東洋人はほとんどいなかった
私のまわりはいわゆる「外人」ばかりでした
なぜかクールファイブの「さよならの彼方に」を
くちずさんでいた

♪他国の人にまわり囲まれて夜の国際線で~
♪ただひとり飛び立つの~

といっても誰も知らないかな~

精神的にも肉体的にも疲れたせいか、すぐ寝てしまった
そして、翌27日9:00ブリスベン空港に無事着きました
(もちろん Brisbane time)
(時差は1時間ですけど)
空港ではみんなの流れについていったらOKでした
もうここまできたら怖いものはないって事か?
空港に日本語のわかる人が迎えにきているはず
と思って探していたら
大きなプラカード(私の名前が書いてある)を持った外人がいた
(外人はあたりまえ!)
(むしろ私の方が外人だ~)
恐る恐る近づいて話しかけたけど OUT!
日本語は全然しゃべれない人だった
でも、親切にもゆっくり話してくれたので何とかわかった
(わかったつもり・・・)
車でホームステイ先に案内していただいた
(車中の会話は全て英語)
私も、もちろん英語で答える
(Yes or No だけ・・・)
ホームステイ先に着いた時、出迎えてくれたのは
その家の奥さん(いわゆるホームマザー)
片言英語であいさつを・・・
(もちろん、お土産も渡す)

昼頃からズーっとベットに横になっていました
何をしたらいいのか、わからなかったんです
夕食の時、家の主(ホストファザー)に会い
3人で食事となったわけですが、
会話がいっさい弾みません
(あたりまえですよね~だって私は何もしゃべらないんですから)
いえ、しゃべれなかったんです
いやはや、ほんとに暗い食事だったな~
私は食事が済んだら、さっさと自分の部屋へ行ってしまいました

1999年2月28日
日曜日ですから家族3人(私を含める)で買い物に行きました
オーストラリアでは、買い物は毎週日曜日にまとめて買うそうです
だから、車のトランクいっぱいになりました
(日本では考えられません)
さすが、毎日肉を食べる人種だな~と思った
ホストマザーとは何とか話せるんだけど、
どうしてもホストファザーとは
「うま」が合わないっていうか言葉が通じません
(それもそのはず、ばりばりのオージーイングリッシュですから)

1999年3月1日
本日より学校がはじまります。
一応、語学留学って事で、来ましたから・・・
学校までマザー(ホストマザー、以降マザー)に案内してもらって
受付もスムーズにすみました
初日って事で、学業というより町の案内でした
どこに銀行があるとか・・・etc,

1999年3月4日
学校が終わってから、クラスメイトとパブに行った
上級クラス2名、中級クラス1名、初級クラス1名
(初級クラス1名はもちろん私である)
ただし、ルールがあって日本語禁止である
すべて、英語の会話でした
日本人が4人も集まって、英語をしゃべるわけですから
まわりの、オージー(オーストラリア人)からみれば
変にうつったかもしれませんね
(しかし、今思えば語学勉強の原点ですね)

1999年3月6日
私は午前中に洗濯をすませ、午後は city に出る事にした
(地理関係を説明します)
私の住んでいた所はキャノンヒル駅から3分です
(Cannonhill)
学校はブランズウィック駅から3分でした
(Brunsuwick)
ともに駅から近いという点は申し分ないのですが
電車に乗っている時間は30分以上でした
(ブリスベンでは遠い方)
私は3月1日に通勤(通学)定期6ヶ月を買いましたから
その間でしたら、どこでも行けます
ちなみに、街(city)はブランズウィックの1つ手前です
ですから、city に行くのに切符を買う必要はありませんでした

駅へ行くと若い女性が一人で電車を待っていました
私はだまってベンチに座っていると、
相手の方から話しかけてきたのです
日本人がめずらしかったんでしょうか??
いや、そんなはずはない!!
なんと、彼女は私に「次の電車は city に行くのか?」
そう聞いてきました
おいおい、日本人にそれもオーストラリアに来て
まだ1週間しかたってない私に聞くな~と、思いましたが
「行きますよ」と答えました
私の発音が悪かったのか彼女からの返事は少し時間がかかった
私から「あなたは大学生ですか?」と聞くと
彼女は「イエッ」と答えた
その発音はどうみても日本語の「いいえ」でした
実は、yes は「イエッ」と発音するそうです
(ただし、若い女の子のみ)
電車が来るまでいろいろ話した結果
彼女はフランス人とドイツ人のハーフであるとの事でした
ただし、英語しか、しゃべれないとの事
私がフランス語とドイツ語で I love you が言えるといったら
(本当は8ヶ国語)
笑いながら聞きたいっていう
私が自信満々に言うと
彼女は「Good pronunciation.」と笑みをうかべながら言った
(発音がいい)
一瞬、本当はしゃべれるんじゃーないかなーって思ったぐらいです
どのくらい話したんだろうか?
時間を忘れてしまっていた
残念ながら電車が来てからは別々のシートに掛けたため
その後、話していない
(ちょっとした英会話レッスンでした)
city に着いてからは、ただ町をぶらぶらして
そして、家へ帰りました

1999年3月7日
本日の昼食はマザーの両親、マザーの妹夫婦と子供たち
私を含め10名でのパーティーとなりました
にぎやかな事は好きですが
みんなから同時に質問されるのには閉口した
(オージーは黙って食事をしない)
なかでも、3才ぐらいの女の子でしたか
私に興味をもって、質問ばかりしていた
(子供の発音は聞き取りにくい)
子供は(特に小さい子供)難しい単語は使わない
また、難しい文法も使わない
いわゆる、ストレートに話すわけだ
(英語の勉強をするなら、子供の相手をしなさい)
私の緊張も解けたのか、
その日の夕飯は家族3人で和気藹々と話がはずんだ

毎週金曜日は授業がほとんどなく
オリエンテーション主体であった
私は他の生徒達と歳が離れていたせいか
昼食の時間はいつもひとりで食べていた
校内は全て英語なので、私に話しかける人もいなかった
むろん、私から話しかける事もないが・・・
(私の英語力に問題があるわけだが・・・)
そんなある日、2人の女子生徒が私に話しかけてきました
(M・I さん、S・O さんあの時はお世話になりました)
「ヌーサに行かないか?」
ヌーサの事は知らないが今度の金曜日にみんなが行く所
そんな風に思っていた
(私は参加する気はなかった)
むろん、参加者名簿に記名してない
先生に言われて私を誘いに来たらしい
「masa はシャイだから、参加できない」ではないか、との事
私がシャイなわけないが、ほとんどの人と会話を
してないわけだから、そうとられても仕方ない事ですが・・・
丁重にお断りして家に帰ると
ファザーがいきなり私に話しかけ
「ヌーサはいい所だから、ぜひ行くといい」との事
私は驚きましたねー
なぜ、ヌーサの事を知っているんだろって!
(学校からTELがあったみたい)
ばりばりのオージーイングリッシュに説得(圧倒)されて
私は次の日、ヌーサへの参加者名簿に名前を記すのでした

1999年3月12日
ヌーサ(おおきな海水浴場)へ行った
(ブリスベンからバスで2時間)
バスの中でも私は、ビデオをみていて
みんなのように会話に参加する事はなかった
ヌーサに着いてからは、ある1つのグループに参加して
海パンとタオルを購入して、みんなといっしょに泳いだ
(水着の用意はまったくしていなかったので・・・)
日本にいた頃は、こんなにのびのびとした事はなかった
何もかもがオージースタイルで、のんびりしていました
帰る途中、先生(といっても私とほぼ同じ歳)と
アイリッシュパブに寄った
他のみんな(半数)は未成年のため入店禁止
(オーストラリアでは未成年者がパブに入る事は出来ない)
(日本では、アルコールを飲まなければOKだが・・・)
入ったアイリッシュパブは怖そうなお兄さん達が、
何やら楽しそうに話していた
ほんと、会話を楽しむ人種なんだなーと思った
飲み物はもちろんビール!
(オーストラリアではビールがあたりまえ)
XXXX(フォーエックス)を私も注文した
大きなグラス1杯でA$3(¥240)は安い!
(当時のレートはA$1=¥80だった)
無事に家に着き、ファザーにヌーサの事を話した
というより、ファザーから聞いてきた
(まだ、ファザーとは話が合わないって感じ)

1999年3月15日
学校帰りに上海の女の子といっしょに city へ出かけた
彼女は日本語がべらべらだった
上海生まれだけれど、日本育ちとの事
それを聞いて納得!
しかし、英語もうまかった

1999年3月21日
この頃になると、学校にも慣れてきたし
なんといっても、若い子達といる事に抵抗がなくなってきた
英語もけっこう、わかるようになりました
(そう思っているのは、本人だけ??)

1999年3月26日
本日はオリエンテーションという事で、サウスバンクで
(city の近く)
B.B.Q.(バーベキュー)そして泳ぎました
(人工の海水浴場がある)
若い子達といっしょにいると、気持ちまで若くなったようです
おまけに、体力まで??
しかし、残念な事に明日、数人の生徒達は帰国するとの事でした
(出会いがあれば、別れもあります)

1999年3月31日
新しい生徒が、入ってきてクラス編成がありました
私は1番下のクラスという事に変わりはないが・・・
(ちょうど、1ヶ月たったわけだが、最近授業がおもしろい)
実は、最初の頃は英語は通じないし友達は出来ないし
(年齢が違うから仕方ないけど・・・)
誰が何と言おうと「帰国」しようと思ってました
(けっこう、意思が弱い)
しかし、まわりに迷惑をかけながらも、ここまできたわけです
もう少し、頑張ってみようという気持ちで1ヶ月たった訳です
そうなると人間、欲が出ます
いったい私の英語はどこまでいくのだろうって!

1999年4月2~4日
3連休である
M・I さん、その子供2名、オージーの女の子1名
そして、私を含め5名でESK(エスカ)へ行った
エスカはブリスベンから車で3時間のところ
大きな湖があって、日没は最高との事
M・I さんは大きなワゴン車を持っていたので
ストレスなく全員を飲み込んだ
しかし、しかし、よ~く考えてみると
男は私一人!
(ちなみに、子供達も女性!)
車の運転はズーっと私でした
(とほほっ!)
(ドライバーとして雇われた??)
私の英語は、全然だめでしたが
M・I さんはオージーとも英語で喧嘩?ができるほど
しゃべれる方でした
(2人の子供も、私より英語がうまい)
初日の夕方(とはいっても陽は落ちている)
道に迷ってしまいました
行けども、行けども、民家はなし
ヘッドライトを消すと「漆黒の闇」である
(田舎道に街灯はありません)
地図をみながら「あーだこーだ」
5人が5人共、意見が違うんですから笑っちゃいますよね
(子供たちも自分の意見を言う)
なんとか、宿に戻り夕食にありついた後は、すぐ寝てしまった
あくる朝、二人の子供たちに起こされ、
朝からスイミングである
プールがあって、自由に使って良いとの事
(しかし、朝から泳ぐなんて・・・)
せっかくエスカまで来たんだから、馬に乗ろうって事になりまして
しかし、なぜ、馬なんだろう??
(私は昨夜、子供たちに馬乗りにされたから??)
ホースライディングは初めての経験です
でも、おもしろかったな~
それから、パラセーリングをしようって事になって
またまた、車を飛ばす?
しかし、残念な事に私はチャレンジ出来なかった
なぜなら、私は高所恐怖症なのだ~
(下から見上げるだけ・・・)
しかし、M・I さんは若い!
(実際、若いわけだが・・・)
そして、今回の目的である、日没を見に行った
(ちょっと、ロマンチック??)

1999年4月17日
早いもので、1ヶ月半以上がすぎました
英語のレベルは全然、上がっていないなー
(このままでは、OUT!)

1999年4月22日
まわりの人達からみると、私はけっこう上達したとの事
たしかに、オージーの前でも、おどおどする事は無くなった

1999年4月27日
最近、オージーと話す事は多くはなりましたが
今一つ、上達してないって感じでした
私は私なりに考えて
見知らぬ人に、話しかけようって思いました
(道を聞くのもいいし、時間を聞いてもいい)
ただ、ちょっと、勇気がいる
(少しでも多く、英語を聞きたかった)

1999年5月5日
この頃になると、地理的な事は、
まったくといっていいほど問題なかった
まず、迷子にならない
(街自体が小さいせいもあるが・・・)
当然、私だけではなく、他の生徒も同じ
私は、ホームステイをしているわけだから、門限がある
遅くなる時はTELをしなければならない
(あたりまえの事だが)
遅くなると、よくタクシーを利用していました
オーストラリアでは運転手の横に座るのが普通です
当然、私も隣のシートに座る
隣に座れば、当然話をする
(けっこう、いい英会話の勉強でした)

1999年5月9日
朝からマザーの両親が来ていてにぎやかだった
私がベランダでたばこを吸っていると
いきなり「マザーズダイ」って言うではないか
母親が死んだのかと思いましたよ
よーく考えてみたら
(day = ダイ)と発音するんですね
ようは、母の日なんですよ
私は、あわてて公衆電話へ行き
日本へTELしたのはいうまでもない
(突然言われるとオージーイングリッシュはわからん!)

1999年5月17日
日本からはもちろんですが、
他の国からも留学している人がいるわけですが
大きく2つに分けて、
ホームステイをしている生徒と
ドミトリーに住んでいる生徒がいました
ホームステイは食事がつくけど
ドミトリーは自分で何もかもしなければ、なりません
しかし、自由になる時間はある
(一長一短!)
ただ、日本でわがままに育った子はホームステイを
簡単に解約してドミトリーに住んでいるようです
多くの生徒が解約していましたね
私もマザーから質問されました
「masa はこの家を気に入っているか?」ってね
私はこう答えた
「I am a member of the family.」
(私は家族の一員です)
マザーの目には涙が・・・
この日を境に、私は本当に家族の一員になったような気がした
なぜか、ファザーとも意思が通じるようになった
そして、夕食後の食器洗いは、すすんでやった
(この日を境に毎日・・・)
(日本の男は台所に立たないよなー)

1999年6月1日
オーストラリアに来て3ヶ月もたちますと
生活スタイルがオージー流なのは当たり前
自分が日本人である事を忘れてしまう?
まーそんな事はないでしょうが・・・
ただ、ワンパターンの生活に飽きてきたんでしょうね
どちらが、誘ったというわけでもないが
ファザーと、パブに行った
友達をたくさん紹介していただいた
この頃は私もジョークが言えるようになっていた
アルマゲドンでブルース・ウィルスが
「オー・ジーザス」と言ったのを思い出して
Oh my God のかわりに使ったら、笑われた!

1999年6月4日
L・Eさん(担任)の家へおじゃましてディナーパーティーとなりました
(ちなみに、担任は超美人)
(子供はいるが独身です)
家には、元気のいい男の子(4歳)と
人見知りするが、とってもかわいい女の子(2歳)!
(きっと、親に似たんだろうなー)
20歳前後の女生徒達の、はしゃぎようったら半端じゃーない
(本当は私が1番、はしゃいでいた?)
あまりにも、かわいいのでみんなが抱っこ(抱く)しようとしますが
すぐ、泣き出してしまい
なかなか、誰にも、なつきませんでした
しばらくして、私が恐る恐る抱きかかえると
幸運にも、彼女は泣かなかった
(彼女にとっては、不運?)
それどころか、私の首に両手をまわしてきた時はうれしかったなー
あまりにも、うれしくてカメラで撮ってもらった
これが、いけなかったみたい
カメラのフラッシュで大泣き!!
(泣いた顔がかわいいんだなー)

1999年6月24日
本日は私の誕生日
帰宅すると、日本からのバースディーカード
うれしかったなー
ジャストタイミングですね
(E・Sさんありがとうー)
家族で、またまたパブに行きました
(ファザーとは気心しれてから、よくパブに行きました)
しかし、オージーはよくビールを飲む
ビールをつまみにビールを飲むって感じです
私はワイルドターキーを飲んでた
(発音が悪いせいか、「バーボン」は通じにくい)
でも、何度も通っていたのでカウンターレディが覚えてくれた

1999年7月11日
マザーの妹の子供が誕生日なのでパーティーとなった
上の子は、もう大きいので私にもきちんと話しかけてくれる
が、下の子はまだまだ子供、単刀直入でしたね
以前にも書いたが英語の勉強をするんなら子供と会話をしなさい
私はそう思う
それがわかってはじめて一人前です

1999年7月26日
私は半年間(24週)の語学留学ですから8月13日には、
終了します 月日のたつのは早いものですね
ほんのちょっと前に渡豪したと思ったら今度は帰国です
帰国すれば、当然働かなくてはなりません
(あたりまえ!)
私のビザは1999年9月27日までありました
(半年留学+1ヶ月)

この頃になると、帰国したら仕事を探さなくてはいけないな~
そう考える日々が多くなりました
しかし、いくら悩んでもオーストラリアにいて
探せるわけはありません
(あたりまえですね)
それで、日豪プレス(日本人向けの新聞)などを
よく読んでいました
べつに、オーストラリアで働きたいと思ったわけでは、ありません
しかし、そこで目にしたのは、日本語教師の広告でした
日本語教師って何?って感じでしたねー
そして、暇を見つけては、日本語教師の事を調べました

日本語教師になるためにはどうすればいいのか?
1、日本語教師養成コースに通う必要あり
2、最終試験をパスしなければなりません
簡単な事です上記の2点をクリアーすればいいのですから
そのためには英語能力をもっとアップさせなければ・・・
そう思いました

日本語教師には2種類ありまして
直説法(日本語のみ)
間接方(英語を交える)
私は間接法を学びたかった
という事は生徒がわからない時は
英語で答えなければならないわけです
(英語は必須です)
ラストスパートでしたね
英語でコミュニケーションをとれるだけでは、だめなんです

ビザは9月27日まであるんだから
その間に何か好きな事をしようって決めました
1、日本語教師養成コース
2、ヨットライセンス
3、ガンシューティング
3点ともシドニーではOKでした

私はシドニーへ行く事に決めた

1999年8月13日
無事、語学学校終了となりました
成績については、伏せておきましょう
(気になる方は E-mail でどうぞ)
ただし、自慢できる事が1つあります
私は出席率100%なんです
(1日でも休めば100%はありません)
そして、長い間お世話になった家ともお別れです

1999年8月15日
別れはつらいなー
Thank you very much for everything.
(いろいろ、お世話になりました)
I`ll never forget you.
(みなさんの事はけっして忘れません)
ファザーもマザーも目にいっぱいの涙!
そして、わたしも・・・
3日間、ドミトリーに止まった
飛行機のチケットが18日しか取れなかったから・・・

1999年8月18日
はじめてのシドニー、(大きな町です)
空港内でドミトリーを探した
英語が以前よりは上達しているので、そう心配はなかった
めぼしい所を見つけてTELして予約を入れた
タクシー乗り場を探していると
女性から「大丈夫ですか?」と言われた
それも日本語で・・・
「日本人だと、わかりますか?」
私の問いに対して、彼女は日本人はすぐわかるとの事
(ちなみに私は中国人も台湾人も日本人も同じに見える)
私はタクシー乗り場を聞いてから
お礼を言って別れた
ドミトリーでは4人部屋に入りました
英国人2人と私(ベット1つ空いてた)
疲れたのでシャワーも浴びず寝てしまった
私の泊まったドミトリーはキングスクロス地区にありました
日本でいえば新宿歌舞伎町の近くって感じです
ちょっと、治安が悪い
(キングスクロスは南半球で1番の繁華街だそうです)

1999年8月19日
本日は学校探しである
ブリスベンにいたときに、何校かチェックしておいたが
実際に見るまでは、安心できないから
見てから決めようと思っていた
何校か見て回った後、1校だけ「これはっ」というのがありました
(早い話が受付嬢が美人?)
早速、申し込みをしました
午前中は英語クラスにはいりました
午後は日本語教師養成コースです

1999年8月20日
英語能力のテストがありました
そして、おどろいた事にブリスベンの時に同じ語学学校に
通っていた子にばったり会ったんです
おどろきましたねー

1999年8月21日
ガンシューティングの予約をいれ
ヨットスクールを探しました

1999年8月22日
本日はガンシューティングの日である
生まれてはじめて手にする拳銃
怖いようなうれしいような、そんな気持ちでした
38口径はそんなに迫力はありませんが
44マグナム、357マグナムは、すごい
しっかり、持っていないと腕が後ろにもっていかれる感じです
最後にショットガンを撃った
正直いって、肩が外れたのかと思いました
教官から君はセンスがいいと言われた
(きっと、みんなに言ってるんだろうなー?)

1999年8月23日
今日から学校が始まった
午前中は英語クラス
(ブリスベンの時より日本人が少なかった)

1999年8月26日
本日より午後は日本語教師養成コース
私は運がいいのか、先生とマンツーマンで教えて頂いた
先生いわく、「実戦あるのみ」との事
私は先生に教えていただきながら、
次の日の1時間は教えるはめになりました
(後で考えたら、この方法がよかった)

午後、日本語を学びたいって人に私が教えるわけですが
生徒数が増えたり減ったりと、日に日に人数が違います
なんとか、すこしでも多くの人に教えたかったので
校内にビラを貼りました
(もちろん、許可を取って)
おかげさまで、何人か固定の生徒が出来ました
それに、教材も自分でつくりました

日本語教師を、もしめざしているのなら
自分で教材(資料)を作る事ですね
(その方が、教えやすい)

英語クラスは8/23~9/17
ブリスベン時代の復習ですね
日本語教師は8/26~9/10
終了試験はペーパーテストと実技です
どちらか一方でも、基準点に満たない場合は失格です
ペーパーテストも実技も自信はありませんが
特に、実技はだめかもしれないって思った
校長先生も生徒のひとりとして参加
そして、生徒ひとりひとりも私の教え方について評価します
生徒達が出て行って校長先生と担任と私、3人になった時
「教えてみていかがでしたか?」と聞かれた
私は少し考えてから
「教える事は習う事より難しい」そう答えた
校長先生と担任はいったん教室から出て行った
しばらく、私ひとりっきりになった
試験結果を待つ時間は随分長く感じられる
2人が戻ってきて「合格だ」といわれた時は本当にうれしかった
(ペーパーテストの方も問題ないとの事)
校長先生はこうも言ってくれた
「masa がやる気があるのならこの学校で教えてもいい」と
うれしかったですね でも、断った!
他国で働く自信がなかった

1999年9月11日
残るはヨットですね
ヨットライセンス取得にむけ、本日より挑戦!
初めての経験である
受講生は全員オージーである
1つのヨットに教官1名と生徒4名で操船します
とはいっても全員素人ですから、なかなか動きません
オペラハウスを海から見るのは格別ですよ
それも、視線が下から上ですから、見上げる感じなんです
男性だけでなく、女性の方もけっこういました
ロープの結び方とか、おもしろかったなー
オージーは不器用な人が多い?けっこう、時間がかかっていた
船上では当然帽子をかぶります
私はブリスベンにいた時に貰った帽子をかぶっていた
(D・Yさん帽子ありがとう)
(おおきく XXXX「フォーエックス」と書いてある)
しかし、これがいけなかった、
シドニーとブリスベンは仲が悪いんです

Brisbane = XXXX
Sydney = vb
ブリスベンでビールを飲むのなら「フォーエックス」
シドニーでビールを飲むのなら「ブイビー」
飲むビールの銘柄にも注意しよう

1999年9月14日
4日間でヨットのライセンスが取れるなんて信じられませんね
(日本では考えられない)
しかし、本日ライセンスを交付していただきました
本当に簡単!ただし、口頭試験があります
英語がまったくわからない人は無理だと思う
日本人は私ひとりだったので、質問もやさしかった
超ラッキー、かな?
シドニーへ来て1ヶ月もたたないうちに私の目標である
1、日本語教師ライセンス
2、ヨットライセンス
3、ガンシューティング
すべてが、かなったわけです
という事で夜は街を徘徊?してました
せっかくキングスクロスの近くにいるのですから
パブを何件か梯子しました
ひとりでは心細いので、同室の英国人といっしょに!
ディスコ(クラブ)にも行きました
ちょっと如何わしい店にも行きました
(映画のワンシーンにも出てくるヌードダンサーのいる店)
道を歩いていると、客引きの人はかならず
私に「いい娘いるよ、うちは安心だよ」
日本語で話し掛けてきます
やっぱり、日本人はカモだー

1999年9月17日
朝、ドミトリーをチェックアウトして学校へ向かった
(荷物を全て持って学校へ行ったわけだ)
午前中の語学勉強も本日で終了です
午後、生徒達(私の教え子)
と最後の晩餐?をして別れた
そして、空港に向かう
もちろん、チケットは前もって買っておいた
すこしでも、早くブリスベンに戻りたかった
空港では、私のスーツケースが重過ぎるという事で
飛行機には乗せられないとの事でした
なんとか、お願いして heavy (重い)のシールだけで済みました
ブリスベンに着いたのは、けっこう遅い時間だった
そして、いきなり友達の家を訪ねた
うれしいやら、びっくりしたやら、いきなり宴会となった
(M・Nさん、A・Aさんお世話になりました)

1999年9月18、19日
帰国まで、まだ日にちがあったので
映画をみたり街をぶらぶら歩いた
(お土産も買わなくては・・・)

1999年9月20日
L・Eさん(元、担任・超美人)の家へ遊びに行く
相変わらず娘はかわいい
この頃はジョークも一級品です
L・Eさんに対して
When I see your eyes my heart beat very fast.
(君の目をみていると、どきどきします)
(とでも訳しましょうか)
というと、「 Oh,masa !」
(本当はバカにされていた??)
楽しい夕食だった
L・Eさんのアイデアでキャンプに行こうって事になりまして
9月25、26日はキャンプで~す
ちなみに、私はキャンプをした事がない
(大丈夫??)
ちょっと、待て!私のビザは1999年9月27日までしかない
心配でしたから1週間ほど、ビザ延長しました

ビザの延長で1週間はありません
だから、帰りのチケット(帰国便)が
1週間後の分しか取れなかったという事で・・・
(イミグレーションの人とちょっと言い合いになった)
(私も負けてはいない?)

1999年9月21日
ホームステイ先のマザー、ファザーに挨拶!
(ブリスベンに戻ってきてからは、ドミトリーに泊まっていた)
マザーが何やら困った顔!
「どうしたのか?」私が聞くと
新しいホームステイヤーと折り合いが悪いらしい
(若い日本人、女の子だった)
(彼女の英語力は私の半年前と同じ)
私が通訳をするかたちで、彼女の意思を伝えた
(私が通訳するなんて、信じられな~い!)
しかし、残念ながら明日朝、彼女は家を出ると決めていました
(彼女は束縛されるのが嫌いみたいだった)
私はマザーにありのままに通訳出来なかった
仕方なく、マザーには「彼女はいろいろな所に泊まりたい」
という風に伝えた
嘘をついて申し訳ありませんでした
通訳について、最初で最後の嘘でした

ホームステイは3食、昼寝付きの宿とは違います
はっきり言って家族の一員なんです
yes or no をはっきりと伝えなければなりません
各家庭には、それぞれルールがあります
また、ある時は我慢も必要でしょう
私自身、最初は戸惑いましたが、慣れてくると
ホームステイの方が楽って感じですね
だからこそ半年も同じ所にステイしていたのでしょうね
遠い異国の地で自分の事を心配してくれる人がいる
私はそれだけで充分だった
私がホームステイをもう1度するとしたら
やはり、同じ家にしますね

1999年9月22~24日
学校へ行き、お世話になった先生方に挨拶

1999年9月25、26日
L・Eさんとキャンプだ~
とはいっても、二人きりではありません
あんな、超美人と二人きりになると私の理性は、
ぶっ飛んでしまう?
あはは!
もちろん、子供達も参加、元クラスメイト達も参加!
10人ぐらいになってしまいました
キャンプといってもテントを張ったりするんじゃーなく
カントリーサイドの家(プール付)を借りてのんびりする事です
いえ、はしゃぐ事かなー
子供達と遊んだなー
特に下の女の子とは、べったりだ~
親に似て美人になるだろうなー
(今、2歳だけど・・・)
いやー飲んだ飲んだ、はっきり言ってバカみたいに飲んだ
あくる朝、プールサイドでビールを飲んでいました
(まだ、飲むんかい)
(他のみんなは、まだ寝ているみたい)
(おじさんは、早起きなのだ)
2歳の女の子が私の方へ来ましたよ
彼女は私の髭が気に入ったらしく
触られっぱなしでした

1999年9月27日~10月2日
ブリスベン市内のあちらこちらに、遊びにいきました
観光はもちろん、映画鑑賞 etc, , ,

ゴールドコーストの友達にも会いに行きました
(S・Oさんお世話になりました)

1999年10月3日
ブリスベン空港で友達と待ち合わせていました
いっしょに香港へ行くためです
私のチケットは1年のオープンチケット
行きも帰りも同じ航空会社でないといけません
香港経由で来た訳ですから香港経由で帰るわけです
ただ、ここでおもしろいのは、香港を通過するだけでもいいし
香港に滞在してもいいんです
(料金は変わりません)


L・Eさんと子供達が見送りに来てくれました
(やっぱり、別れはいやだなー)
下の女の子なんか日本に持って帰りたいぐらいでした
(コアラよりかわいい!)

実に、7ヶ月と5日のオーストラリア生活に
終止符を打ったわけです

香港に3日間滞在(観光)しました
(C・I さんお世話になりました)

1999年10月6日
香港空港でC・I さんとは別れましたので
(C・I さんの飛行機の方が先に飛び立つ)
私はひとりでぶらぶら空港内を見てまわった
搭乗アナウンスにしたがい、乗り込む
機内シートの位置は窓際でした
ごう音と共に飛行機は舞い上がった
後、数時間後で日本かー
長いようで短かったなーと思いました

もう、クールファイブはくちずさんでいなかった


(^o^)/~~~~~ masa

masaomi fukushima
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